会計士の肖像
PwC Japan有限責任監査法人
代表執行役井野 貴章
実績を重ねた井野は04年、パートナーに昇進する。ところが、直後に中央青山監査法人を、いや日本の監査業界を揺るがす「カネボウ粉飾決算事件」が起こる。事務所は捜索を受け、事件に関与したとして4人の会計士が逮捕される事態に――。06年5月には、ついに金融庁から2カ月の業務停止処分が下された。顧客企業に動揺が広がるなか、同6月にあらた監査法人が分離独立し、井野はその一員となった。
事件発覚後、事務所に再生委員会が組織され、僕もその分科会の一つに加わりました。でも、金融庁の処分が発表され、既存の監査業務も止めざるを得ない……。これは大きな衝撃でした。最後は「PwCグローバルの品質が提供されるなら監査の継続を考える」と言ってくださった顧客の期待に応えるべく、あらた監査法人が設立され、これまでともに過ごした仲間と違う道を歩むことになったわけです。当時は、信じてくれた顧客の要請に全力で応えたいということ以外、何もなかったですね。全員でこれまでの歴史を1回ゼロクリアして、新しいものをつくっていこうという決意でした。
でも、それは容易なことではなかった。あの頃に、会計士人生の全エネルギーの10%は使ったんじゃないかという感じです。顧客からも職員からも、当然「先行きは大丈夫?」と聞かれます。「大丈夫、信じてください」「一緒にやっていきましょう」と言うのは、いわば不確実性の残る未来を保証するような重いことでした。自分自身で覚悟を決めて説得に回るのには、通常業務とは別の気力も必要で、心底消耗しました。
あえて付け加えておけば、ゼロクリアとは、既存の仕組みや発想を最初から組み立てるということで、中央青山の先輩後輩と〝袂を分かつ〟というのとは同義ではありません。当時改革の先頭に立ち、中央青山に残った手塚正彦さんに、僕は「また一緒に仕事をしたい」という思いを伝えて事務所を去りました。危機に際して我々が〝脱藩〟したという見立てもあったと思います。ですが、出ていくほうも強く後ろ髪を引かれる思いだったのは、いうまでもありません。
ただ、ゼロクリアへの作業を通じて、「どういう気持ちで顧客に向き合うべきなのかを確かめ、従業員の成長に責任を負う自覚が生まれた」と井野は振り返る。その後、新生あらた監査法人は順調に顧客数を増やし、4大法人の一角を占める存在となった。本人は、14年に品質管理担当執行役、18年には人事担当執行役常務に就任し、法人の中核を担っていく。
入所以来、一貫して保険会社の監査をやってきたことは、結果的に大きなアドバンテージになりました。保険会社の負債のほとんどは、監査が難しい〝見積もり〟。僕は、難しいところにどうアプローチするのか、という仕事をずっとやってきたことになります。また、保険会社は、保険を引き受ける時も、保険金を支払う際も人が関与するため、間違いが起こりやすい。これを管理する内部統制についても、他の業種にはない高いレベルが要求されました。加えて、引き受けたリスクが貸借対照表には載っていないという論点も。
例えば、大事故のリスクを大量に引き受けていても、何事もなければPLは〝優秀〟そのもの。潜在的リスクは財務会計の外にありますが、実はその管理は保険経営の肝なのです。潜在的なリスクと立ち向かう体力を見極めるリスク管理についても、学ぶことになったわけです。こうした経験は、品質管理部門を任せられた際にも大いに役立ちました。
また、どれだけチェックリストをつくっても、少し似ている新しい失敗事例が報告される。結局、これは人の問題なのだと気づかされました。この時に、人を採用し、育てるプロセスの充実が監査品質の向上につながると考えたことが、後に人事部門を担当する機会につながりました。
ところで、品質管理部門のリーダーだった頃、印象深いことが2つありました。一つは監査の説明責任についてです。監査意見には4つの種類があるので、期日がくればどれかを出せばよいという立場も市場規律を確保する見識です。でも、実務家として会計の専門家ではないすべての投資家を守るためには無限定適正意見しかない。だからその成就を目指して全力で企業と協議する。それでも目的が叶わない時、会計士はどういう説明責任を引き受けるべきか。ある時私たちは、よい部分はよい、悪い部分は悪いという監査判断を伝えたいと考えました。これは決して情緒的な判断ではありません。何がよくて何が悪いかをすべての投資家が理解できない場合、大変危険な監査判断になるからです。困難なミッションでしたが、環境にも支えられながら、最終的に一歩踏み込んだ説明責任を引き受けることができてよかったと、今でも思います。
もう一つは、リーダーシップについて。時として世界中の経験値と知見を集めて総合的に取り組むことが必要な事案があります。そんな時、PwCグローバルの総大将に電話すると、ああしろこうしろなどとは一切言わず、2つだけ質問をするのです。「睡眠は取れているか?」「PwCの最高の専門家とコンタクトしているか?」。次にグローバルのアシュアランスのトップから、「私がつなげるから後は任せろ」と。疲労困憊する監査チームにどれだけ癒やしと勇気が与えられたことか。こんなリーダーになりたいと思いました。グローバルトップの支援から、初めての大きな相談に対しても、旧知の仲のようにみな真摯に対応してくれた。監査チームを孤独にしない――。PwCというネットワークが体現しようとする価値に触れた気がして、僕はこの組織がますます好きになりました。
PwC Japan有限責任監査法人代表執行役井野 貴章