会計士の肖像
有限責任あずさ監査法人
理事長内山 英世
大学を卒業した年、75年9月に第二次試験に合格。翌月、内山はアーサーヤング会計事務所に入所する。先輩による紹介などではなく、数カ所面接を受けて踏み出した第一歩だった。「やはり海外志向はあったかな」と振り返るが、籍を置いた期間は3年と短い。「もう一度きちんと勉強したくなった」。それが、退職した最大の理由だ。
実務に就くと、どうしても日々の仕事に追われるわけですよ。すると、日常的に疑問に思っていることや、きちんと理解すべきだと思う根幹の部分が、なかなか勉強できない。それがストレスになってきたのです。このままでいいのだろうか。専門家として生きるというのは、どういうことか――自分に問うてみたら、中途半端な耳学問みたいなことでは、世の中に通用しないと。で、猛烈に勉強したくなって、事務所に辞表を出しました。辞めることに、怖さはまったくなかった。社会のニーズに合った能力を身につけていないほうが、よほど怖いですよ。本質的にね。
そこからまる1年間、勉強の日々です。この期間は、会計士試験を受ける時より勉強したと思います。法律にしても規則にしても、実務経験があると、その背景にあるものが見えてくる。何を解明したいか、学びたいことに具体性があるから楽しかったですよ。そういえば、当時はまだ公認会計士三次試験に口頭試問があったんですけど、その際、面接官に「何でこんなに筆記試験の点数が高いの?」と聞かれました。そりゃそうですよ、1年間死に物狂いで勉強してるんだもの(笑)。
言わば人生の“水入り”。今でも思いますが、この経験は、会計士をやっていくうえですごく貴重な礎となりました。若い会計士の皆さんは、プロモーションとか、キャリアステップをとても気にするけれど、人生、新幹線のように定時定刻にはいかないですよ。ぎちぎちに考えていると焦るし、少しでも人から遅れると不安にもなる。肩に力を入れないほうがいいこともあると、体験的に僕は言いたいですね。
1年という学び期間を取った内山は、79年の秋から、監査法人朝日会計社(現有限責任あずさ監査法人)でパートタイムで働き始める。ここでようやく、自分の求める会計士像が明確になるのだが、その羅針盤となったのは尾澤修治氏。かつて日本公認会計士協会の会長も務めた、高名な人物である。時宜を得るというが、この時の内山がまさにそうだった。
求職中、地元の税理士事務所に応募したんだけど、見事に落とされちゃって。そんな僕に「パートでもやったら」と声をかけてくれたのが、朝日会計社にいた大学の先輩です。3カ月ほど経ってから正式に入社したのですが、その際、当時の法人会長であった尾澤先生にご挨拶に伺ったんです。僕にしてみれば雲の上の存在で、年も50歳近く離れている大先生。開口一番、「何で、どこの誰とも知らぬお前を雇わなければならんのだ?」なんて、きついことを言われちゃってね(笑)。
その頃、事務所は有楽町にあって、尾澤先生が帰宅される際は東京駅までお見送りするのが慣例でした。先生のカバンを持ち、駅のホームで夕刊紙を買って一緒にお渡しする。そのカバン持ちを、新入りの僕がやることになったのです。そして何回かお供しているうちに、先生が「隣に座って、一緒に帰れ」と。というのも、自宅が同じ方面だったので。さぁ困った(笑)。30歳前の若造が先生と車中で何の話をすればいいのか。話題が合うはずもない。正直、しばらくは苦痛でした。
でもね、ある日思ったのです。こんな偉い方と二人だけで時間を共有できる若い会計士なんて、考えれば僕しかいない。この機会を活用しろという、天の采配じゃないかって。そう気づいてからは、妙な背伸びはせず、普段考えていることや悩みを率直にぶつけるようにしました。たくさん質問しましたねぇ。尾澤先生からは、その頃の僕には持ち得なかった次元での発想や、アドバイスを多々いただきました。まさに究極のOJT。教わった仕事の真義は、事業経営者が何を課題として認識しているのか、それが会計という規範の中で社会にいかに適正に報告されるべきか、そこを理解しなければ会計も監査もできないということ。この目線があってこそ、専門的な能力が生きる。初めて、思い描いていた会計士像に触れた気がしました。僕の行く道を導いてくれた先生との出会いは、間違いなく人生の転機となりましたね。
有限責任あずさ監査法人理事長内山 英世
公認会計士第三次試験(旧)の試験委員
青山学院大学国際マネジメント学科講師(非常勤)
政府各省庁委員会(財務、農水、総務、林野、経産)の委員などを歴任