会計士の肖像
有限責任あずさ監査法人
理事長内山 英世
海外を飛び回る職業に憧れ、内山は神奈川県立貿易外語高等学校(現横浜国際高等学校)に入学。当時としてはユニークな英語教育を実施する学校で、リベラルな校風の下、高校生活を楽しんでいた内山だった。が、2年生になる前、父親が病に倒れる。家計が苦しくなり、一時は高校を中退することも考えたそうだ。
クモ膜下出血でした。以降4年間、親父は寝たきりの状態になって、介護がいかに大変なものであるか……つぶさに見てきましたね。食事、風呂、そして下の世話、家族全員で看病する毎日。高校は中退しようかと迷った時期もありましたが、兄弟が「高校くらいはちゃんと出ろ」と、物心両面に渡って支えてくれた。だからつらかったというより、家族が力を合わせ、支え合って生きていくことの大切さを学ばせてもらった経験です。
学校は、自由や自律をとても重んじる校風でした。一度、こんなことがあったんですよ。数学の授業がどうもよくわからなくなってしまった僕は、一計を案じて、先生に直談判したのです。「先生は僕を理解させる義務があるのだから、わかるまで教えてください」という理屈で(笑)。すると「わかった」と。実際、放課後に授業とは違う切り口で個別指導してくれました。自分の悩みや困り事を率直に相談して、「けしからん」という人は、そうはいないものです。そんな僕の主張を受け入れてくれたり、教育の基本を世界に通用する語学力を養うことに置いていた点でも、むしろ、今の時代にこそ求められる学校の在りようだと思いますね。今は、グローバルな会議に出ると、英語の世界に翻弄され自分の語学力のなさに七転八倒(笑)。でも、“始めた時が学び時”、いちから勉強の毎日です。
大学進学時期は、まだ父親の介護生活が続いていたが、家族の支えにより、内山は早稲田大学の政治経済学部へと歩を進める。学費は奨学金とアルバイトで賄いながら、「けっこう勉強した」真面目な大学時代。入学当初はマスコミ志望で、公認会計士という職業は頭にまったくなかった。それがひょんなことから会計士に興味を持ち、今日に至るのだから、人生はわからない。
会計士を目指そうと意識したのは2年生になってからですが、実は伏線があるんですよ。入学してすぐのこと。キャンパスを歩いていたら、ドイツ語クラスの同級生を見かけたので、「どこに行くの?」と声をかけたんです。そうしたら「簿記の勉強に行く」と言う。聞けば、実家が会計事務所なので、在学中に試験に受かって後を継がなきゃならないという話でした。びっくりですよ。入学したばかりで呑気なムードの中、こんなしっかりしたヤツもいるんだって。
それから時間が経って、将来をどうしようかと考え始めたのが2年の夏休みが終わった頃。我々の時代には学生運動は下火になっていたけれど、社会変革への志向はまだ強かったと思います。だからといって、ただ社会を否定していても始まらない。「今の世の中、どうしたら良くできるだろう」「そのために自分は何を成し得るか」。大人になる過程で、そんなことを考える時期ってあるでしょ。その時僕は、一般企業に入るより専門性を身につけて、それを武器に社会に貢献する生き方のほうが自分に向いていると思った。そこに目的意識が生まれて、簿記学校に通っていた、くだんの同級生に相談し、会計士を目指すことにしたのです。最初に僕がキャンパスで声をかけなかったら……これも縁ですね。
ゼミを選択する段になって、僕は政経学部なのにもかかわらず、商学部の教授にまたもや直談判(笑)。当時、会計士試験の受験課目のひとつだった商法のゼミに入りたかったから。もう亡くなられましたが、岡田憲樹先生の研究室に突然行って頼み込んだのです。「君は何を言ってるんだ?」。先生の目がテンになっていましたね(笑)。それでも、「勉学しようという気持ちを大切にするのが、早稲田の伝統じゃありませんか」と食い下がり、結局、入れてもらいました。先生も「学徒動員で復員したあと、大学校舎の屋根裏に、暖を取るために七輪を持ち込んで寝泊まりしながら勉強した」とおっしゃっていたので、何か琴線に触れるものがあったのかもしれません。
やりたい、興味があるとなったら策を弄さず正面突破。中身が間違っていなければ、誰かが理解してくれる。社会も応援してくれるものです。逆に言えば、そういう社会じゃないといけないよね。ちなみに卒業以来、ゼミOB会の幹事をやり続けて35年。無理やり入れてもらったご恩返しです(笑)。
有限責任あずさ監査法人理事長内山 英世
公認会計士第三次試験(旧)の試験委員
青山学院大学国際マネジメント学科講師(非常勤)
政府各省庁委員会(財務、農水、総務、林野、経産)の委員などを歴任