会計士の肖像
石田正公認会計士事務所
石田 正
公認会計士試験に向けて、本格的に勉強を始めたのは大学卒業後。試験合格を目指す者をサポートする明治大学「経理研究所」の特別会計研究室に身を置き、石田は猛勉強した。「キリがなくならないよう」受験は3回までと決めて臨み、「ギリギリ3回目で受かった」。70年、当時の第二次試験に合格した石田は、先輩に声をかけられて「東京第一公認会計士事務所」に入所、キャリアをスタートさせた。
非常に居心地のいい事務所でした。昔の話ですから、会計士資格を得る前は大会社で取締役や財務責任者を務めていたというオーナー先生方がいたんですよ。だから、たくさんのことを教えてもらえた。監査業務だけにギュウギュウせず、多角的な視点で経営を捉える姿勢を早い段階に学べたのは大きかったと思います。
事務所の監査先の一つに大手化学企業があったのですが、この時、共同監査として一緒に仕事をしたのが当時のアーサーヤングの東京事務所です。こちらは日本ベース、先方は米国ベースの会計、財務諸表をつくるという分担で。これが別世界だったんですよ。日本の監査基準と米国の監査基準、アプローチにしても手続きにしてもすべてが違う。アーサーヤングのほうは綿密なプログラムに基づき、誰が何を何時間以内にやるというのが全部決まっているから、仕事の進め方も違う。それを目の当たりにした時、私は「このままだと自分が茹でガエルになっちゃう」と危機感を持ったのです。
なので、自分から動くことにしました。アーサーヤングの当時シニアだった坂本道美さんに相談をしたら、パートナーを紹介されて面接を受けることになり、同事務所への転職が決まったという流れです。折しも30歳の時でした。この頃はまだ、監査法人のような大手事務所がない時代でしたから、第二次試験に合格した人たちは、まず外資系の事務所で数年経験を積み、それから日本の事務所に移るというパターンが多かったのですが、結果的に、私は逆のルートになったわけです。
「厳しいのはわかっていた」が、石田はアーサーヤングで徹底的に鍛えられたという。当初の3年間は米国監査基準の習得に明け暮れ、USベースの発想を体に叩き込んだ。そして力をつけたところで、77年、石田はシンガポール事務所に赴任。かねてより抱いていた「海外で仕事を」という願いが叶ったのである。
例えば、一つのクライアントにかかりきりになると、その間はまともに寝る時間なしですよ。システマチックに完成している監査プログラムに則って、仕事は次から次へと渡されるし、先の坂本さんに監査調書を上げれば、「これもあれもダメ」とチェックが通らない。経験の積み重ねによる監査手法とは圧倒的に違いましたね。怖いパートナーばかりで本当に厳しかったけれど、そのぶん、プロフェッショナルな仕事というものを学ばせてもらいました。
アーサーヤングのシンガポール事務所から「日本人会計士がほしい」という話が出たのは、3年経った頃。「石田君どう?」と声をかけられた際、私はまだ三次試験を終えていなかったので、時期尚早かとは思ったのですが、やっぱり行きたいと。普段から海外に出たいと騒いでいましたし(笑)。日本人会計士が海外に駐在したのは、おそらく、国際会計士連盟の会長を務められた藤沼亜起さんと私が最初ではないかと思います。出る時に、東京の事務所所長から「アンバサダーになったつもりで行ってこい」と言われたことは、いまだによく覚えていますね。
世は第一次投資ブームの時代で、日本企業がこぞって東南アジアへの直接投資を始めた頃です。それを背景にした私の主たるミッションはクライアント開拓、つまりは営業。これがけっこう面白くて……私は営業向きのタイプなんでしょうね。それは以降、ロンドンに再び海外赴任した時も同様で、営業のように、監査業務以外の仕事をいろいろ経験できたのは、キャリア形成するうえで大きかったと思います。
石田正公認会計士事務所石田 正