会計士の肖像
仰星監査法人
理事長南 成人
第二次試験に合格したのは1986年10月だが、南はその合格発表を前にして朝日新和会計社(現有限責任あずさ監査法人)の大阪事務所に入所し、同時にTACの講師(公認会計士試験講座)にも就任している。成績優秀な南はTACでも名の知れた存在だったから、いずれも“引き”があっての話だ。そして、最初の1年間はTACの専任講師として働くという、少々異色なキャリアをスタートさせた。
この時代、監査法人は人手不足で、僕らは金の卵状態でした。完全な売り手市場。法人側も専門学校の成績優秀な人材を把握していて、合格発表前から採用活動をしていたわけです。僕には同期の友人がたくさんいたから、それも見込まれてか、先んじて朝日新和から声がかかり、「リクルート担当になってくれ」と。そんな時代でした。他方、TACにはそのまま残って講師をするという話があったものだから、僕は「1年間はTACの専任講師をします」とわがままを言いまして。しかも、その1年後は東京で働きたいという希望を出したんですけど、それでも採用してくださった。実にありがたい話です。だから僕の場合、実際に監査の現場に出て働き始めたのは入所1年後、東京に移ってからです。
講師を務めたのは、もともと人のサポートをするのが好きだから。よく休憩時間を利用しては、受験仲間に教えたりしていたんですよ。あとは、自分では得意じゃないと思っていた“大勢の前で話す”経験を積んでおくのも有意義だと考えたのです。
財務諸表論の講師から始め、その後は原価計算、監査論と担当科目を変えながら、気づけば何と50歳になるまで続けていた(笑)。もちろん本業がありますから、途中、何度か「辞めたい」と申し入れたのですが、慰留されまして。土曜日だけ教壇に立つとか、放送授業にするなどして対応してきました。実は今も、“本丸講師”は辞めたけれど、修了考査対策講座を受け持っているんですよ。まさか、ここまで長いお付き合いになるとは……想像だにしなかった。面白いものです。それに、長いから教え子がたくさんいるでしょう。うちの事務所がここまで規模を拡大できたのには、人材確保の面で、教え子たちの存在が大きい。成績優秀で独立心のある人材を、他法人に先駆けて採用してきましたから(笑)。
朝日新和会計社に入所した1年後、南は受験仲間の山田雄一氏を頼って希望どおり上京し、監査業務に就く。上昇志向が強い南にとって、日本の中心である東京は「何としても行きたい」場であった。“3年間”という約束で両親を説得してのスタートだったが、猛烈に働くなか、次第に南はこの仕事の魅力に引き込まれていく。
当時は、事務所に丸一日いることなどほとんどなく、地方出張も含めていつも“現場”に出ていました。往査先は商社や新聞社、旅行会社など、サービス業が多かったでしょうか。「一国一城の主になりたい」気持ちが強かったから、学べることはすべて吸収しようとがむしゃらに仕事しました。こちらが若造であっても、会社によってはトップと膝を交えて話し合う機会があり、早くから経営の中枢に触れられたことは実務以上に学びがありましたね。現場責任者やIPO支援も経験し、仕事がどんどん面白くなるものだから、気づけば3年はとうに過ぎていました。
転機が訪れたのは、ちょうど30歳になろうかという時。朝日新和を辞めた先輩から一本の電話がありましてね、“たまたま”僕が受けたのです。別の人に宛てた電話でしたが、不在だったので用件を伺ったところ、「人が足りないので誰かいないか」という話だった。当の先輩の知人である税理士事務所の先生が、監査法人をつくろうとしていると。で、話をするうちに「そういえば、南君はいずれ独立すると言っていたよね」となり、僕がその先生に会ってみるという流れになったのです。
この時にお会いしたのが安田莊助氏で、僕より20歳年上。物静かな哲学者のような方で、そのお人柄に引き込まれました。そして何度か面談するうち、監査法人を一緒に立ち上げようと気持ちが固まったのです。朝日新和で7年間お世話になり、一通り実務経験を積んで仕事もわかっていたし、30歳という区切りを迎えて新たな道に踏み出してみようと。「東京赤坂監査法人」を設立したのは1993年、これが現在の仰星監査法人の大元です。
実はこの時も、僕はいずれ大阪で独立することを考えていて、「3年間精いっぱい頑張ります」と言っていたんです(笑)。監査法人がきちんと稼働するまでと思って。それが、また面白くなって今日に至るのですから、本当に人生わかりません。少なくとも、あの一本の電話を受けていなければ、話はまったく違っていたでしょうね。
仰星監査法人理事長南 成人
その他役職
・ 一般財団法人会計研修機構 理事
・ 株式会社ファンペップ 監査役
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