会計士の肖像
プライスウォーターハウスクーパース株式会社
代表取締役社長内田 士郎
学院3年の頃から、内田は友人たちとビジネスを始めている。原宿辺りを中心に、輸入雑貨やアクセサリーなどを売る露天商ビジネスだ。最初はアルバイト感覚だったが、持ち前の仕切りの巧さ、アイデア力が仕事を大きくしていった。販売網は地方にも広がり、月に40万、50万円と売り上げる。学生時代から車を持ち、「小遣いに困ったことはない」。が、時が経つうちに、どんなに稼いでも、遊び半分でやっている自分に充足を感じられなくなった。
ここで出会う多くの人たちは、人生を懸けて取り組んでいるわけですよ。もっと稼ぎたい、いつか自分の店を持つと、真剣に未来を切り開こうとしている。僕のような学生のお遊びとは意気込みが違うんです。それがわかってくると、お金は持っていても、結局何も極められない自分に虚しさを覚えるようになりました。
一方で、僕が本気で自分と向き合うようになった直接的なきっかけは、親友を海で亡くしたこと。74年9月8日。丸山鉄雄君ともう一人、3人で伊豆下田へサーフィンに出かけたのです。台風一過の見事な晴天で、絶好の波乗り日和に思えました。だけど台風が去った後の波は意外と高い。それなのに「ビッグウェーブだ!」と勢い込んで海に出て、僕らは大波に飲まれてしまった。結果、丸山君だけを失ったのです。自分たちの無謀さが引き起こした、堪えがたい痛恨事でした。
さらにその後、今度は別の友人と遭った交通事故です。タイヤを滑らせてガードレールに突っ込んだ大きな事故で、運転していた友人は3カ月の重傷。なのに、後部座席に座っていた僕は無傷。これはもう、天からのメッセージだと思いました。「今の生き方でいいのか」という僕への問いかけ。商売ばかりで大学へはろくに行かない、昼前に起きたことがない生活。人間、放っておけば安易で楽しい道を選びがちですが、この時の僕は、それが凶事を呼んでいるのだと。ストイックになって、葛藤する日々が続きました。
目前の霧はなかなか晴れなかったが、就職を意識する時期になって、内田はようやく道標を得る。公認会計士の資格取得を目指す――「まともに机に向かったこともなかった」内田にとって、それは初めて直面した難関だった。約3年間の苦しい試験勉強を支えたのは、最後まで絶対に諦めないと決めた強い信念と、「亡くなった丸山の分まで精一杯生きる」という思いだ。
海外への憧れがずっと心にあったので、商社に就職したかったのです。1年間、日米会話学院に通ってある程度の英語力は身につけていましたし。でも、大学の成績が悪い。成績重視の大手企業には相手にもされません。気がつけば、周りは一流企業にどんどん就職が決まっている。何となく周囲の態度が“上から目線”になって、悔しかったですね。どうやって、この周回遅れを取り戻すか……。そんな時に思い出したのが、たまたま出た会計学の授業で聞いた先生の言葉でした。「米国の会計士はビーン・カウンター(豆の数を数える人)ではなくビジネスアドバイザーだ。米国のビジネス社会で活躍している人には、会計士の資格を持っているケースが多い」。将来はビジネスリーダーになりたいという僕の志向と合っていたし、誇れる自分の土台を得るためにも、会計士を目指すことにしたのです。
4年の夏から専門学校に通い、ゼロからスタートです。簿記検定1級と税理士試験の会計2科目は、そう時間をかけずに受かったので、「会計士もいけるな」とその気になったんですが、そんな甘い話はなく、79年の初挑戦は失敗。再度、一念発起し、それからの1年間はすべてをかけて勉強に打ち込みました。露天商の仕事からは完全に手を引き、日々、10時間以上机に向かう苦行のような生活。人生で一番勉強した時代です。翌80年、第二次試験に合格できたことは、それまで破天荒に生きてきた僕に、本当の意味での自信を与えてくれました。苦痛の日々だったけれど、やっと人生の新しい出発点に立ったという感じですね。
プライスウォーターハウスクーパース株式会社代表取締役社長内田 士郎