会計士の肖像
株式会社豆蔵ホールディングス
代表取締役社長荻原 紀男
アーサーヤング公認会計士共同事務所(当時)に入所したのは、「一番厳しい事務所だと聞いたから」と、これもまた荻原らしい選択理由である。仕事がきついぶん、ほかに比べて給料が高かったのも魅力的だった。入所時に「思ったより暇そうですね」と〝かました〞こともあり、荻原には早々から難しい仕事が舞い込んだが、それでも「つらいことは先にやれ」が信条。精力的に仕事に臨んだのは、言うまでもない。
最初に与えられた仕事は、債権の取り立てですよ(笑)。通常ならマネジャーがやるところ、「お前は強面だから、行ってこい」と。私も生意気なことを言っていましたからね、難しい案件に回されることが多かったです。
なかでも印象に強く残っているのは、内部統制の監査。アメリカでもまだ試験段階だった時代で、J-SOXが実施されるうんと前の話です。前例がない仕事ですから、まずは概念を理解し、どういう書類を揃えなければいけないのかなど、一から猛勉強しまして。おかげで私は、財務報告に係わる内部統制の監査を実践した第1号となり、この経験は後々までずっと生きました。豆蔵を起業後も「日本で最初に書類を作成した」と公言しちゃって、内部統制にまつわる講演もずいぶんしましたし、商売的にも貢献できたと思います。
岐路を迎えたのは、4年目に入った頃でしょうか。大手商社の仕事が新規で決まり、事務所内で新しいチームをつくる話と、並行して、当時の朝日監査法人から「応援に一人寄越してくれないか」というリクエストがあったのです。後者は、別の総合商社での支援業務です。この時、人事担当の役員に呼ばれまして、「これからどうする?」と。新チームに入るか、出向するか、私は大きな選択を迫られたわけです。でも、答えは即決で「一人で行きます」。だって、上司がいないっていいじゃないですか(笑)。事務所からは「人事評価が難しくなる」とも言われましたが、評価は元来、お客さまがするものですからね。何の抵抗もありませんでした。
クライアントはもちろん、仕事関係者も皆知らない人たちばかりで、ゼロからのスタートになったけれど、それが刺激的で面白かった。途中で朝日に転籍し、結果的には9年間、総合商社に行っていました。ものすごく勉強させてもらった時期でもあります。
朝日監査法人に転籍した1988年頃から、荻原は実家の家計も支えるため、アルバイト的に税理士業務を始めた。当時は規制も緩く、黙認してもらえたそうだ。当初は副業だったが、そこは営業が得意な荻原である。数年も経つと顧客が増え、その収入は監査法人の給料を上回るようになった。結果的に38歳の時、荻原は監査法人を辞して独立、事務所を開業したのである。
実は私、税理士業務を始めて稼ぐようになってから、投資で大失敗しているんですよ。33歳の時でした。私財を投資した会社が、バブルに乗った経営の甘さから倒産し、かなりの借金を抱えることになってしまった。やはり、会社経営には自ら当たるべきで、人にお金だけ預けて任せるものではないと思い知った一件です。
さすがの私も「参った!」という状態が続き、子供も生まれたものだから、とにかく何をやってでも食べていかなきゃと。副業だったとはいえ、必死に頑張らなきゃいけない状況にあったわけです。当時の上司にも「何とか続けさせてほしい」と嘆願しましてね。事情を汲んで、「本業に支障が出ないようにやりなさい」と言っていただけたのは、今でも感謝しています。それで借金返済のメドが立ち、事務所開設にこぎ着けることができましたから。
川崎市の自宅をオフィスにし、「荻原公認会計士税理士事務所」の看板を掲げました。開業当初から、経理に明るかった家内が、乳飲み子の育児をしながら、会計入力や事務所の運営を手伝ってくれました。そのおかげもあって、現在も税理士法人プログレスとして事業を続けることができています。今では新宿の第一生命ビルに事務所を構え、また、多くの素晴らしいスタッフにも恵まれ、連結納税を武器に多くの組織再編を手がけるなどして、法人約250社、個人約100人の顧客を抱える事務所となりました。
ただ、事務所の経営が軌道に乗り始めると、私が必死になってやることがなくなり、物足りなくなってきた。大きな贅沢を望まなければ十分に食べていけるから、そういう人生もありかとは思ったけれど、どうにも寂しい。性分ですねぇ(笑)。開業して3年も経つと、「何か面白いことがないかな」と次を探している自分がいました。
株式会社豆蔵ホールディングス代表取締役社長荻原 紀男