会計士の肖像
日本公認会計士協会
相談役藤沼 亜起
藤沼が会計人として第一歩を踏み出したのは、堀江・森田共同監査事務所である。しかしながら、在籍したのは1年と短い。それは、将来の監査人像として「英語で仕事ができる力量がなければ」と、早々に危機感を持ったことに端を発し、自身のレベルアップを強く望んだからだ。アーサーヤング公認会計士共同事務所(当時)に転職したことは、結果的に、その後の藤沼の人生を大きく決定づけるものとなった。
私は森田先生のほうに入ったのですが、いわゆる人格者で、かつとても面白い先生でした。仕事環境にも不満はなく、平穏にやっていたのですが、ある時、大手印刷会社の監査業務に携わったことで、自分に火がついたのです。私に課せられた仕事は、同社と外国企業との特許関係について調べることだったんですね。先方の担当者から契約書を渡されたのですが、当然、オリジナルは英語版です。もう、全然わからない。さらに日本語版を見ても、外国企業との契約書だから要領がつかめない。その時、痛感したのです。「将来監査人としてやるにしても、英語ぐらいできないと話にならない」。英語を身につけ、グローバルな仕事を経験していかないと「俺、まずい」、そう強く思ったのです。
当時はまだ、監査法人のような大手事務所がない時代でしたから、外資系に転職しようかと考えていたところ、大学時代の仲間が「うちに来いよ」と声をかけてくれた。それが、アーサーヤングです。今思えば、この転職は、人生の岐路となった決断でした。
アーサーヤングには、当時パートナーとして伊藤勝夫先生がいらしたんですけど、「こういう人と仕事ができたら」という思いもありました。知る限りでは、日本で最初に連結財務諸表に関する実務書を書いた著名な先生ですから。だけど、伊藤先生はめちゃくちゃ厳しい人で、一緒にいるのが恐ろしいほど。先生が調書をチェックすると怒られるわ、ペーパーは破られるわで、関係者は皆、緊張したものです。大手商社の連結決算をUS基準でやるという仕事において、「君に特別アサインするから」と言われた時はうれしかったけれど、伊藤先生と二人きりになるのかと思うと「参った」という気持ちのほうが大きかった。でも厳しかったぶん、プロフェッショナルな仕事というものを学ばせてもらいましたね。
当初、藤沼は辞書と首っ引きで英文の監査マニュアルと格闘していたというが、現場での仕事に加え、外資系事務所はこと語学教育にコストを惜しまない環境にあり、確実に力をつけていった。そして33歳の時、ヨーロッパに出る初めての日本人として、ベルギー・ブリュッセル事務所に海外赴任。慣れない環境に戸惑いながらも、この経験は藤沼に大きな財産をもたらした。
「公用語は英語」というのが前提ですから、東京の事務所でも英会話学校に行かせてくれたし、時には、語学習得のために、プロジェクト単位でもコストをかけてくれたんですよ。加えて、私も自分でインターナショナル・フレンドシップ・クラブに通い、積極的に外国人と付き合うようにしていたんですけど、そうなると、遊び力が生きてくる(笑)。女性も多かったから、一緒にスケートに行ったりしてね、英語を学ぶには絶好の場でした。
「ベルギーに赴任しないか」と声がかかったのは、マネジャーになった頃。その前からアメリカに行き来する仕事を経験し、海外への興味は一層強くなっていたから、迷う余地はありませんでした。この時代、日本企業のヨーロッパ進出はまだ非常に少なかったので、アメリカ企業の監査手伝いや、新たなクライアント開発が主な仕事です。
1年目は、仕事環境の違いにカルチャーショックを受けて、10㎏くらい体重が落ちたんですよ。最たるものは人事評価で、これが悪いとすぐにスタッフの解雇につながるという厳しさ。私はマネジャーですから、部下を評価する立場だったのですが、最初のうちはよくわからないし、半ば怖くて意見も出せなかった。知っている人たちが解雇されていく様を見ていて、大変な世界に来たと思ったものです。
でも2年目以降は、だんだん調子が出てきちゃった(笑)。いつの間にか、私は日本商工会議所の監事になっていて、現地の日本大使館にも出入りするようになり、若造ながら、経済界の重鎮たちと交流する機会を持てた。海外に出たから得られた経験で、これは有意義でした。そして、事務所にはイギリスやアメリカなど様々な国から人が来ていたから、ネットワークと共に視野が広がったのは確かです。私はアウトゴーイングというか、明るくやるタイプなので、国内外問わず通用してきたのかな、とは思いますね。
日本公認会計士協会相談役藤沼 亜起
[業界活動など] 現在、日本公認会計士協会相談役、財務会計基準機構評議員ほか、上場会社の社外取締役及び監査役多数