会計士の肖像
株式会社日本エム・ディ・エム
代表取締役社長大川 正男
入所4年後、大川はシドニー駐在員としてオーストラリアに出向。もとより「一度は海外に出たい」と考えていた大川にとっては好機で、監査業務や日本企業の現地法人に対する諸サービス業務を通じて、「いいトレーニングを積むことができた」と言う。そして2年半の赴任期間を経て、帰国したのが89年。大川の業務はさらに広がりを見せ、その一つ、IPO支援において縁が生じたのが日本MDMだった。
帰国してから、法定監査に加えて一層幅広い業務に就くようになりました。一つには、品質管理。クライアントに監査意見を表明する際、それぞれの現場から上がってくる審議書類をチェックする仕事や、必要に応じて、地方に展開している事務所自体の業務管理を審査するとか。いわば内部監査的な役割ですね。さらにIPOや、公共サービスの提供を民間主導で行うPFIにも従事していました。このPFIでいえば、当時はまだ走りで、在籍していた監査法人で第1号の案件に携わることもできた。
広く浅くではあるけれど、様々な業務を経験するうち、僕は「事業活動のフロントをやってみたい」と考えるようになっていました。法定監査はもちろん重要な仕事ですが、立ち位置としては、企業のバックオフィスである経理財務のさらにバックオフィスじゃないですか。それよりは、新しい価値やモノを生み出すような仕事、つまり事業活動の前線に立ってみたいと。
そう思っていた頃です。当時の日本MDMの創業社長から「後継社長にならないか」と声をかけられたのは。日本MDMは僕のクライアントで、監査と株式公開支援にあたっていたのです。株式公開は、店頭公開から東証一部上場まで約2年半、かなり早いスピードで達成できたので、期待には応えられたと思っています。プロフェッショナルとしてそれなりの自信はありましたが、でも、上場会社の社長というのは……さすがに迷いましたけど、これもまた人生、新たな道です。前述したような思いも強かったし、転職することを決意しました。ちなみに、声をかけてくださった創業者に「なぜ僕なのか?」と聞いてみたところ、「野球のピッチャーをやっていたでしょ。ピッチャーが投げないと試合が始まらないから」。わかるような、わからないような回答だったのを覚えています(笑)。
2001年、大川は代表社員にあった中央青山監査法人(当時)を脱退し、日本MDMの取締役として新たなスタートを切った。「次の社長に」という話ではあったが、大川が実際にトップに就くのは、実のところまだ先の話。早々に取り組むことになったのは、米国ソルトレイクシティにある子会社「Ortho Development Corporation(以下ODEV社)」の経営再建である。
最初の1年ほどは管理本部にいて、組織全体を把握しながら問題点を洗い出し、くだんの創業社長に進言をしていました。「会社の経営課題を挙げてくれ」というオーダーを受けていたので。直截的な僕は、遠慮なく耳に痛いことも指摘するものだから、時に、怒らせちゃったこともあるんですけどね(笑)。そんななか、喫緊の課題として挙げたのが、アメリカ子会社の赤字垂れ流し問題です。「ならば立て直してこい」という話になり、僕としては表立って指摘した手前もあるし、いずれの社長業にも役立つと考え、再建にあたるという任を引き受けたのです。
アメリカに赴任して、まず行ったのは、10人ほどのマネジャーらに対する個別インタビュー。すると、皆言っていることがバラバラだった。会社の向かう方向、基本的な方針や戦略において、混乱をきたしていたのです。元来ODEV社は、名前にあるOrthoが示すとおり、整形外科の医療機器を開発・製造する会社なのですが、日本側からの要請で、脳外科の製品も扱うようになっていたんですね。この世界、診療科が違うと内容はまったく別物ですから、従業員が混乱するのは無理もありません。
仕事としては、経営の中核にビジネスプランを据え、会社の将来像、向かうべき方向を策定するところから。皆で議論を重ね、足並みをそろえるまでは大変でしたが、でも、掲げたビジョンに対して「現状はどうか」「目標とのギャップをどう埋めていくか」がはっきりすれば、あとは実践すればいい。実際、動き始めてから半年ほどで、黒字化へのメドが立ったのです。
監査法人時代、最後はパートナーを務めていたので、その経験が生きています。現場すべてを自分でマネジメントするなど無理な話で、長として大切なのは、現場の意見を取り入れながらビジョンやアクションプランを策定し、うまく差配すること。そして、何か失敗や問題が起きた時の責任は、「すべて自分にある」という覚悟。現在の社長業においても同様ですが、僕の役割は、いわば旗振り役だと思っています。
株式会社日本エム・ディ・エム代表取締役社長大川 正男