会計士の肖像
株式会社日本エム・ディ・エム
代表取締役社長大川 正男
国立狙いという初志どおり、横浜国大へと歩を進めたわけだが、早稲田のエピソードが裏打ちするかのように、大川が在学中に最も熱を込めたのは文芸活動である。文芸誌を発行する「翰林社」というサークルに入り、好きな詩作に励んだ。講義棟には足を向けず、サークル棟の仲間たちと議論し、酒を酌み交わし、そして旅にも出たりと、大川は存分に大学生活を謳歌した。
自分たちで小説や詩を書き、年2回くらい文芸誌を出していました。発行するためにバイトしたり、近所のお店に広告を出してもらったりして。詩は、思ったまま、感じたままに言葉を並べていけば格好がつくから、そんな大層な話ではないのですが、とにかく好きで、日頃から、目にした情景や浮かんだ言葉は書き留めていましたね。
文芸活動を柱にしながら、僕を筆頭に、学業には不真面目な連中ばかりで過ごす日々。酒飲んで議論したり、高じて取っ組み合いのケンカもしたり。当時の横浜国大には、学生運動がまだ色濃く残っていて、外部から運動家がよく来ていたんですけど、彼らとも飲み友達でした。僕はどのセクトにも賛同しなかったけれど、ウマが合ったというか、文学論なんかも熱く交わしていました。そんな調子だから、4年生になって将来を考える段になっても、普通に就職する気にはなれなかった。密室政治や企業の賄賂ウンヌンみたいな話も見聞きしていたし、何だか会社員になるのがイヤだったんですよ。
かといって、詩で飯が食っていけるわけもなく……そこで考えたのが、資格取得です。そういえば、横浜国大には著名な会計学の教授陣がいて、会計士になるために、この大学に入学したという学生もいると。会計士試験が難しいとも知らず、思い立ったというわけです。「目指したい」とゼミの教授に申し出て、そこから1年留年して受験勉強に専念です。簿記のボの字も知らないスタートラインだったから、専門学校に通い、この時ばかりは人生最高級に勉強しました。続けてきた詩作もいっさい封印して。短い勉強期間でしたが、大学を卒業した1982年、運良く合格できました。正直、主要3科目の試験は失敗したと思っていたので、自分でもびっくりでしたが。
当時の合格者は二百数十名で、まさしく売り手市場。専門学校で開かれた合格祝賀会の場には、いくつもの監査法人が机を並べ、合格者に対する採用面談が行われていたという。その際、「人の列が少ないから」と、大川が並んだ先が中央会計事務所(当時)である。以降、19年間にわたり、大川はここで広域な業務に携わることで、会計士としての経験と知見を重ねていく。
インタビューがあるなんて知らないから、長髪、よれよれのジーンズで行ったんですよ。今思えば、よく採用してくれたものです(笑)。同期たちの多くは、お目当ての偉い先生に付きたいと、目的を持って事務所に入所しているのに、僕は深く考えずにひょっこり入ったという感じで。
逆に、その“更地っぽい状態”が買われたのか、最初に配属となったのは外国部でした。部単位それぞれで機能する監査部ではなく、事務所全体を横断する管理部門的な存在です。外国部の人たちは皆、ユニークで面白かったですね。国内監査では飽き足らなくて、欧米で進んだ会計を修業したいという猛者が多かったし、働き方もフレキシブル。僕の性には合っていました。
監査業務は3、4割程度で、外国企業の有価証券報告書を作成したり、アニュアルレポートを日本風にアレンジしたり、あとは逆に、国内企業が海外資金調達をする際のお手伝い、そういった仕事が多かったです。英語をちゃんと勉強したのは、実質、初めてのようなもの。資料の細かい英文を相手に苦戦し、辞書とも首っ引きだから、視力が一気に落ちました。加えて、当時あった三次試験に向けての準備もあり、けっこうハードに働きましたねぇ。それでも外国部の仕事は面白く、振り返ればいいスタートだったと思います。今の僕があるのは、この時の経験があったおかげ。本当に感謝しています。
株式会社日本エム・ディ・エム代表取締役社長大川 正男