会計士の肖像
税理士法人レガシィ
代表社員天野 隆
80年7月。28歳だった天野はアーサーアンダーセンを退職し、父・克己氏が営む税理士事務所に入所。母親がガンで亡くなったことが、直接的なきっかけである。「一人になって寂しがっている親父を手伝いたい」。天野には、そんな気持ちがあった。当時、上野にあった事務所は10坪、所員は3名という小さな所帯。天野は、ここから自立への道を踏み出したのである。
新しい挑戦をするんだ!と、意気軒昂にスタートを切ったわけですが……早々に挫折を味わうことになりました。まず、お客さまが増えないという現実。それまで大きな看板のもとにいた僕には、営業経験がない。近くのラーメン屋さんに何度か足を運び、営業してみたものの、まともな話ができず、挙げ句は「うちは青色申告でやっているから、税理士なんて関係ない」と断られる始末。ただ、お金を払ってラーメンを食べただけ(笑)。僕にとっては、生涯忘れられない原体験です。力んで力んで、ようやく仕事をいただけるという日々でしたね。
もうひとつは“チームにならない”挫折感。それなりにスタッフを増やし、せっかく仕事をいただいてきても、人がついてこない。こっちは命懸け。でも、みんなは正直“余裕を持って”仕事したいわけです。だから、意識の高いプロ組織にならない。一番の間違いは、誰もが僕と同じ意識を持っていると思い込んでいたこと。営業とは逆で、力めば力むほど人が離れていきました。つらかったのは、25人いた社員のうち、10人が次々と辞めていった時です。その現実を受け入れるまでに時間がかかりました。もともと人材流動が激しい業界ですから、もっと自分を生かせる場を求めてとか、人それぞれ考えがあるのに、「俺は全面否定された」という気がして。過剰反応ですよ。でも、僕は大きな挫折感を味わったことで、現実を“受け容れる”という気づきを得ることができた。「凡人集めて非凡となすが経営」という言葉がありますが、今は、いたく心にしみますね。
子供の頃から“教え”というものを心に響かせてきた天野である。逆境に立てばそれも何かの道しるべ、学びの機会として捉えてきた。事務所を「組織」にしていくために、ありとあらゆる成功プログラムで経営を勉強し、私淑する経営者たちにも積極的に会いに行ったそうだ。そして85年、天野は財産管理を専門に手がける「株式会社財産クリニック」(現レガシィ)を設立。今日の礎となる事業に着手する。
同期で、勉強仲間でもある山田淳一郎(山田&パートナーズ名誉会長)さんに啓発され、我々の未知の分野として資産税に着目したのです。僕自身、税理士業は専門がみな同じだから、何か新しいことを始めなければ飛躍はない、そう考えていた時期でもありました。バブル直前。資産がどんどん高騰していった時代で、まさに追い風が吹いていました。
入り口は、税理士・本郷尚さんの口利きで三井ホームのセミナー講師を務めるようになったことです。例えば「アパートを建てるなら相続税対策でこう有利に」というセミナーであれば、地主さんたちとの接点ができて世界が広がるわけです。ただ、セミナーに来ている人たちが顧客になるのではなく、一緒に話を聞いている三井ホームの社員さんが“紹介拠点”になってくれるのです。彼らの日常の営業活動のなかで、「このケースなら、天野さんの話がいいんじゃないの」と、お客さまを紹介してくれる。“拠点”を言い換えれば“恩人”。我々は、この恩人をいかにしてつくるか、そしていかにして尽くすか、そこが勝負なのです。技術力を磨くのは案外簡単なことで、人より多く勉強すればいい。それを認識していただく場、そして恩人を持つことが肝要で、だからこそ事業を拡大することができたのです。
ただこの時期、僕個人としては財テクで大失敗しているんです。死ぬほど働いていたぶん、資産所得に魅力を感じるようになって、そっちに目がいったんですね。仕事的にも、資産は身近なものだったし。株を買い、土地を買い……バブルが弾けた後、抱えたのは億を超える個人負債。2000年にはすべて返済しましたが、僕の40歳台は借金返済の10年間。妻には本当に迷惑をかけました。でもね、僕はこの時に傷を負ったから、いろんな資産家の相談に対して、そして人の痛みに対しても“寄り添える”ようになった。「よくわかります。そのように決められたのには、いろんな事情があったのでしょうね」と言えるようになりましたから。とまぁ、60歳過ぎれば、こういう失敗話も図々しくできますね(笑)。
税理士法人レガシィ代表社員天野 隆