会計士の肖像
日本アイ・ビー・エム株式会社
営業担当 取締役 専務執行役員ポール 与那嶺
多くの同窓がそうであるように、与那嶺もアメリカの大学を受験する。姉二人がサンフランシスコ大学に進学しており、「野球部につてがあるからやる?」という話もあったからだ。しかし、アメリカに出た与那嶺は外国人選手の力を目の当たりにし、結果として野球の道を断念する。そして一転、会計の世界に方向転換したのである。
サンフランシスコ大学自体、野球の名門ではないんですけどね。それでも外国人選手の体、力、スピードはすごい。それを見るだけでプロの道は厳しいなと。そんな頃、父とバッティングセンターに行ったんです。軟式ボールでけっこう傷んでいるせいもあるけど、父はそのうちの何球かを割っちゃうんですよ。50歳を過ぎてなお、ヘッドスピードがすごい。私もそれなりに強打者でしたが、やはりプロは別格。野球で生きていくのは無理だ。そう思って、結局、大学2年のシーズンが終わったところで道を断念しました。
その後、夏休みで日本に帰った際、知人の紹介で会計事務所の人たちに英会話を教えるアルバイトをしたんです。その時が会計事務所との初めての接点。どんな仕事をしているのかと様子をうかがいながら通っているうち、事務所の人に「大学で授業を取ってみたら?」と言われて。で、大学に戻ってから、試しに会計の授業を受けてみたのです。これが、けっこう成績良かった。周りの友達が「難しい」って悲鳴を上げている中、何だか私はスッと入れたんですね。それで、専攻を体育から会計学に変更したというわけです。
野球をやめるとエネルギーが余るから、それを全部勉強に移しました。猛烈に勉強しましたね。途中の専攻変えは大変でしたが、どうにか4年で卒業することができました。今もそうですが、僕はゼロか100かの人間。やるとなるとガーッと熱中できるんです。
当時のビッグ8は、各大学にスカウト目的で面接に来たそうで、与那嶺も複数の事務所のインタビューを受けた。印象的だったのは、ピートマーウィックのパートナーとの話だった。日本企業が盛んに米国進出をしていた時代である。「今後ますます日本企業は重要な存在になるから、日本語ができるのであれば一度詳しく話をしないか」。その相手として挙がった名前が竹中征夫氏。日本人として初めてピートマーウィックに入所し、白人社会の中で異例の早さでパートナーに栄進、日本のM&A開拓者としても高名な人物だ。
竹中さんから電話があって、「ロスまで遊びに来い」と。会うと非常に熱心な方で、彼のインタビューに感銘を受けたのです。「お前にも日本人のルーツがあるのだから、日本企業を手伝う使命があるだろう」って。お前とか言われてしまうし(笑)、これは面白いぞと思ったわけです。
まだエンロン事件の前でしたから、当時の事務所は“フルサービス”でした。会計監査はもちろん、業務やシステム改革、人事制度、企業買収など、お客さまに対してありとあらゆるソリューションを提供する。そこで業績を伸ばしていく事業モデルで、その点においては日本の監査法人とはずいぶん違っていたと思います。
私はジャパンプラクティス(日本企業部)に所属し、竹中さんのもとで必死に働きました。昼間は会計監査業務、夜は給与計算や個人の確定申告の手伝いなど、アメリカ人がやらないような様々なサポートをする。日本企業の現地法人や駐在員事務所が望むことはすべて引き受けました。クライアントが喜んでくれるのが嬉しくて、こういう仕事が楽しかった。まだ日本語が下手だった私は、逆に、駐在員の方に教えてもらったり。ギブアンドテイク(笑)。そういう営業センスのようなものは、竹中さんに鍛えられました。週ごとにリポートを提出するのですが、何を書くかというと、誰と会ってどういう会話をして、どういう商売を開拓したか。若造にはプレッシャーでしたが、この繰り返しで、うんと年上のお客さまに会いに行けるようになったのです。私のベースができた時代ですね。
日本アイ・ビー・エム株式会社営業担当 取締役 専務執行役員ポール 与那嶺