会計士の肖像
谷古宇公認会計士事務所
谷古宇 久美子
10坪のオフィスからのスタートだった。開業翌年には、谷古宇高資氏と結婚、長男を出産と、谷古宇の生活は公私ともに大きく様変わりしたが、晴れての独立に、彼女は惜しみなく力を注いだ。当初より掲げていた方針は、「大企業にできて、中小企業にはできないこと」に着眼し、その枠組みを取り払い、徹底的に中小企業の経営支援に臨むこと。このスタイルこそが競合との差別化になり、事務所発展への原動力となっていくのである。
文字どおり裸一貫からの独立でしたから、まずは知人や銀行に顧客を紹介してもらうところからです。とはいえ、顧問先として“いい会社”は、先輩の先生方がしっかりお持ちなので、私たちに紹介いただいたのは経営の苦しい会社ばかり。それが3社。さほどの顧問料も見込めないし、決して楽なスタートではありませんでした。
でも、かかわっていくうちにわかったのは、中小企業の経営者は皆、必死に働いているのに、必要な資金が不足し、いつも苦しんでいるということ。資金力も担保力もある大企業なら、例えば、金融機関から融資を受けることも容易だし、外債発行による資金調達も可能ですが、中小企業には難しい。そのなかで、できることは何だろう――私たちが考えたのは、中小企業経営の基盤をつくるために、働いて得る利益を資産に転化していくことでした。
「フローからストックへ」の考え方です。本業の利益を積み重ねるだけではなく、稼いだ利益=フローをストックに転化したうえで、かつストックからのフローとキャピタルゲインをも獲っていく。それらを充足するツールは何かと考えました。
結果、有価証券か不動産が中心になりますが、利回りが低く、日々の相場に追われる株式よりも、より安定的に投資できる不動産のほうが適していると。加えて、実際の不動産物件探し、金融機関への交渉などは私たちがやり、経営者には「仕事に専念してください」というスタイルを大切にしました。机上のコンサルでは意味がなく、実践あってこその経営支援。私、子供をおんぶしながら、ものすごい数の物件を見て回りましたよ(笑)。
当時としては珍しかったと思いますが、資金調達において外貨借入の手法も取り入れました。上場企業が低利で外債発行で資金調達できるのに、それができない中小企業に同様の効果をもたらす方法――為替差益の見込めるスイスフランをオープンで借り入れした資金調達です。それが私たちの選んだ差別化の一手でした。
経営者に寄り添いながら、谷古宇らは確実に力を蓄えていった。数多くの顧問先を安定経営に導いたことで信頼を得、顧客も順当に増加していった。不動産の目利き力はもちろん、その運用にかかわる様々なプロたちとのネットワークを構築できたことも武器となり、事務所は次の段階へと飛躍する。
経営者同士の交流会である「百億会」というのを創設したんですよ。中小企業の経営者は、孤独であり、心が時に砕けることもある。会社は、経営者がどれだけ大きくなるかによって違ってきます。そこで、多方面の識者に講師をお願いして勉強会を開き、互いに切磋琢磨しながら成長していこうと。
「100億の資産を持つのにふさわしい人間になりましょうよ」というのが主旨です。ここでの様々な議論を通じて、私もずいぶん触発されました。
追って、経営者の奥様方を対象に、「WINの集い」という模擬株式投資の会もスタートさせました。仮想で「谷古宇証券」を設立し、日経新聞を彼女たちと読みこなすことから始めました。
政治面、経済面、株式面と、今まであまり興味がなく読み飛ばしていた記事を、どうすればわかりやすく彼女たちに浸透させられるのか。架空の資金枠を彼女たちに配り、架空の株式投資をしながら、年間の運用成績で競いながら楽しんでもらう勉強会です。思い返せば、この経験は何より私自身の勉強になりましたね。
でもこうやって、不動産だの株だのって話していると、あたかもバブルに踊ったようでイヤなんですけど(笑)、不動産を所有するとしたら“固定資産”ではなく、いつでも換金できる“流動資産”であるべき。これが私の持論です。企業の経営基盤を堅固にするためのものですから。
そういった意味で、もしも不動産を保有していることが企業経営の足かせになっていると感じた時は、売却を積極的に推奨しました。おかげで、バブルが崩壊した時も不動産で苦しむ顧問先は少なかったです。
90年代半ばからは、顧客先で成長した中小企業とはIPOやM&Aを視野に入れた施策にも取り組むようになりました。それから後継者問題、創業者利益、雇用の安定会社が抱える様々な問題の解決に適した方法を模索するなど、仕事の領域もどんどん広がり、とにかく日々、がむしゃらに走ってきたという感じですね。
谷古宇公認会計士事務所谷古宇 久美子
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