会計士の肖像
谷古宇公認会計士事務所
谷古宇 久美子
谷古宇は、国の育英資金を活用して中央大学商学部に進学。会計士を多く輩出する同大学には、「自分より優秀な人がたくさんいる」と、入学早々“井の中の蛙”だったことを痛感したそうだが、そんなことで彼女はまったくへこたれない。自分でやると決めたすべてのことに邁進していった。そして、会計士を目指す複数の受験サークルのなかで、最もレベルの高い「会計学研究会」に属し、必死の覚悟で勉強に励んだ。
会計学研究会がそんなに狭き門だとはつゆ知らず、入学してすぐに臨んだ“受験”は失敗。旺文社のテストで全国トップクラスの成績だったものだから、甘く見ていたんですね。周囲の優秀さを思い知りました。
それで1年生の秋に再度挑戦となるわけですが、甘さの残る私は、試験の前日、友達と夜どおしおしゃべりしていて、起きたらもうお昼。大遅刻ですよ。でも、これであきらめては、仕送りをしてくれている両親に申し訳ない。会場に駆けつけ、すでに後片付けをしていた先輩に「何とか試験を受けさせてください」と必死に頼み込みました。結果、異例として取り計らってくださり、試験を受けさせてもらい入会。その時の佐野先輩、当時のクラブ幹事長だった高橋先輩には本当に大感謝しています。
引っ込んじゃったらおしまい。もう必死でした。会計士試験に早く合格したかったからアルバイトもせず、3畳一間の狭いアパートで頑張ったものです。熊本から出てきて、「私にはあとがない」という思いでした。でも、勉強だけというのもダメなタイプなので、恋もしたし、仲間たちととことん付き合ったし、青春のすべては会計学研究会にあったという感じですね。
学生運動が盛んな時期で、大学はロックアウト状態でしたから、この受験サークルがなければ、私は充実した大学生活を送れなかったでしょうし、公認会計士としての道もなかったかもしれません。私にとって、本当にかけがえのない場所でした。
大学を卒業した1971年、公認会計士第二次試験に合格し、谷古宇は「ピートマーウィックミッチェル会計事務所(現KPMG)」に入所、職業人として新たな一歩を踏み出した。ちなみに、第三次試験に合格した75年は、日本国内の公認会計士数5000名弱のうち、女性は1%未満という時代だった。かつて実家の商売と縁のあった業界専門紙は、谷古宇の合格を「スーパーレディ誕生」として、1面に取り上げている。それほどの快挙だったということだろう。
最初から、外資系を考えていました。もともと、海外から導入された監査業務ですし、本家本元のやり方を学びたいと思ったからです。そのなかで当時、女性を採用していたのは、ピートマーウィックミッチェルだけ。まだまだ閉鎖的な時代でした。
チームで監査業務に就くわけですが、数あるクライアントのなか、幸いにも私は、ホンダ、大日本印刷、東京海上などといった大手を担当させてもらいました。それまで外から眺めていた大企業に足を踏み入れ、若い時分に度胸をつけられたことは貴重な経験です。
社会人1年目の私は見るもの聞くもの、すべてが初めてで、毎日、新たな発見の連続でした。ただ、どんな会社に行っても、どんなに地位の高い方に会っても、“腐っても鯛”の精神が生きていたのか、まったく臆することはなかったかな(笑)。
ピートでは、現場の仕事を介して、「監査とは何ぞや」という本質、そして、作成された決算数値を分析、解析していく基本となる考え方を学ばせてもらいました。仕事仲間もたくさんでき、仕事が終わると赤坂の一ツ木通りあたりでよく飲んだり騒いだり、これも楽しい私の青春時代でしたね。
ただ、忙しい毎日のなかでも、実家の倒産が改めて思い起こされ、同じような思いをする企業や人を少しでも減らすことができないか、自分で手助けができないか――そんな思いがどんどん膨らんできて。入所4年が経った頃、ピートを退職することにし、そして、中小企業を支援する事務所をつくるべく開業準備を開始したのです。
それから1年ほどして、「この人となら一緒にやれる」という確信のもと、大学時代からお付き合いのあった谷古宇高資さんと事務所を開業したという流れです。28歳の時でした。
谷古宇公認会計士事務所谷古宇 久美子
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