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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
日本公認会計士協会
前会長(現相談役)増田 宏一
今年7月に、日本公認会計士協会の会長職という大任を終えた増田宏一。やっと少し自由な時間を持てるようになったと、穏やかな表情を見せる。1969年に公認会計士登録をしてから丸40年、この仕事を「一度も辞めようと思ったことはない」。拳を挙げて語る熱血漢ではないが、一本道を真っ直ぐに歩んできた増田の言葉は清冽だ。そして彼の原風景もまた、清冽な自然をたたえた地、新潟・佐渡島にある。
生まれは東京の世田谷ですが、3歳の頃に親父の実家がある南佐渡の羽茂(はもち)町に疎開したんです。お袋が心臓弱くて、体のあちこちが悪かったものだから、療養目的で。で、そのまま居ついちゃったという感じです。何より良かったのは、素晴らしい自然環境に恵まれたこと。海遊びばかりしていたから、もう真っ黒に日焼けしててね。当時はサザエやシジミなんて取り放題。それに親父の実家は農業をやっていたので、戦後の混乱期で大変な時代の中、僕は食べる物に不自由したことがなかった。その頃の自然に触れる生活が、今もって健康で丈夫な体を作ってくれたのだと思います。
ただ田舎はどこもそうだけど、基本は村社会だから排他的でしたね。東京からやって来た僕ら一家はよそ者。よく“旅の者”っていじめられたものです。そのくせ、周囲はいつも耳をそばだてている。土地になじむまで、都会っ子の母親は特にキツかったんじゃないかなぁ。少々ノイローゼ気味でしたから。そんなわけで、病弱なお袋や妹の面倒をよく見ていました。小学生の頃から釜でご飯炊いたり味噌汁作ったり、今でもサンマ焼かせたらうまいですよ(笑)。そういう意味じゃ親孝行で、まじめだったかな。
野球、バスケットなど、体が大きいほうだったからスポーツは何でもやった。「どれもモノにはならなかったけど」と言うが、好奇心旺盛で何でもこなす。母親の体が復調してからは、学業にも身が入るようになった。中でも増田少年が熱中したのは、珠算。手に職をつけなさいと、父親に行かされた格好の塾通いだったが、小学5年生から高校1年生まで続いた。
たとえばスポーツなんかもそうですが、やり始めはどんどんうまくなって面白い。でも途中で、階段の踊り場に留まっているような停滞時期がくるでしょ。僕は珠算検定の2級がなかなか取れなくてね、10回ぐらい受けてもだめ。親父には「もうやめろ」と言われたけれど、悔しくて諦めきれなかった。でもずっと続けていると、ポンと抜ける瞬間があって、結果2級と1級、同時に合格。初段まで取りましたが、限られた時間で答えを求められる検定試験のおかげで、かなり集中力を鍛えられました。7桁ぐらいまで暗算できるようになるんだから、人間の能力はすごいですよ。今思えば、珠算との出合いが職業に影響したんでしょうね。もっともこの頃は、自分が会計士になるなんて思ってもいませんでしたが。
数字になじむと数学も自然と得意になって、羽茂高校時代の成績は常に1番、2番には入っていました。学生数が少ないからね(笑)。英語の先生が、早稲田大学の商学部か新潟大学の人文学部なら受かると言うので、新潟大学を一発勝負で受験。東京に出たい気持ちがなかったわけじゃないけど、家の暮らしはラクじゃなかったから。疎開した時に、所有していた貸家も含めて数軒の家を売ったので、相当なお金があったらしいんだけど、戦後の急激なインフレで財産を全部失なっちゃった。それに、まだ完全回復していなかったお袋のことも心配だったし。でもまぁ、高校生ともなると生意気ですから、自宅にいると親がうるさいっていうんで、近所に部屋を借りて仲間とつるんだり……ぐらいのことはしていましたよ。
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日本公認会計士協会前会長(現相談役)増田 宏一
金融庁金融審議会 専門委員、 財務会計基準機構 評議委員 株式会社企業再生支援機構 監査役 NKSJホールディングス株式会社 社外監査役 エーザイ株式会社 社外取締役(監査委員長)ほか多数
vol.1の目次一覧 |
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