会計士の肖像
日本公認会計士協会
前会長(現相談役)山崎 彰三
「世界に通用する監査法人をつくる」。等松・青木が設立時に掲げた理念の一つで、事実、日本で最初に米国ニューヨーク州に進出するなど、同監査法人は国際化において先んじていた。元来、海外志向が強い山崎にとって、それは波長の合う話である。「派遣員としてブラジルに行ってくれないか」。そう職命を受け、サンパウロに赴任したのは75年5月、山崎はまだ26歳だった。
三次試験に受かったばかりの人間を行かせるという……私がトップだったら、絶対そんなことさせませんよ(笑)。等松・青木がトウシュ・ロスのメンバーファームになった年で、他国の事務所を含め混沌としていたし、ほかに行く人がいなかったんでしょう。でも、「いずれ海外に出たい」と考えていた私にとっては、早くに機会をもらえた恰好になりました。たまたま大学生の時に、ブラジルのインフレーション会計を学んでいたこともあって、実際に見てみたいという思いもあったし。これも巡り合わせですね。
文字どおりゼロからのスタートです。初代駐在員としての最大の役割は、日系クライアントを開拓すること。私は、あまり営業が得意じゃないのですが、在ブラジル日本人商工会議所に出向いたり、日本語の経済誌に税法の解説文や、いろいろな論文を寄稿したりして、自分の存在をアピールしていきました。「顧客を掘り起こせ」「給料も自分で交渉しろ」ですから、何もわからない当初はまさに暗中模索。厳しかったですよ。お客さん第1号は、かつての東海銀行の現地法人。監査を請け負った最初の仕事は、今でも覚えています。
折しも、日本ブラジル租税条約が改正されるタイミングで、ブラジルに事情調査に来た大蔵省(当時)の役人をフォローする仕事もしましたし、インフレ会計についても、概念的には先進的でも実態が伴っていない現実を知るなど、数々、貴重な体験を得ました。でもやっぱり、新大陸であるブラジルは荒々しいというか、大変な国だったんですよ。「ずっといれば、偉くしてやる」という話もあったのですが(笑)、さすがに帰りたくなって。帰国したのは80年、まる5年が経っていました。
80年代に入ると、好調な経済環境を背景に、日本企業の国際化や情報化が急速に進展する。伴って、監査法人も従来の会計監査だけでなく、新たなサービス提供に向けて業務、規模の拡大を図り、合併による業界再編の動きが活発になっていった。等松・青木も幾度の合併を経て、今日のトーマツがあるが、山崎は、こういった激動の時期を駆け抜けてきたのである。
東京に帰任してから最初に携わったのは、英文財務諸表監査です。今は他社と合併してしまいましたが、ある会社がアメリカの証券市場に上場したいという話があって、私にお鉢が回ってきた。結果は流れてしまったのですが、2年ほどかけて、ずいぶん苦労しながら準備したんですよ。もしうまくいっていれば、その業界では、初めてニューヨーク証券取引所で上場できた案件だったんですけど……。また、株式公開ブームのなか、トーマツもすごく力を入れて、みんな突っ込んでいった時期です。私自身もかなりの数の公開支援業務を担当しましたが、何も下地のない会社を一から指導し、準備を積み上げていく仕事は、非常に手応えのあるものでした。当然ながら通常の監査業務もあり、銀行、流通、保険会社など、様々な業種をクライアントに持ち、猛烈に仕事しましたねぇ。
バブル経済の発生から崩壊までを、まさに“その場”にいる者として、ずっと見てきました。銀行などによる過剰融資は、まさにバブル経済そのもの。数億のシードマネーがあれば何十億も融資する、あるいは土地さえ持っていれば、カネはいくらでも出す。それでゴルフ場をつくりましょう、ビルを建てましょうという話です。融資を伸ばすことが第一義で、与信管理は二の次も同然でした。そんなことがいつまでも続くわけはないから、周知のとおり、崩壊後はおびただしい不良債権が発生したのです。
今でこそ言えますが、当時の銀行の会計には、税法基準以上の貸倒引当金という概念はなかった。だから、回収できなくなるのはわかっていても、貸倒引当金が自分の判断では立てられない。アメリカにはすでに、その会計基準があったのに、日本は全然活用しないで、バブルが崩壊していくのに任せたわけです。「一体、これは何なんだよ」。米国会計基準を勉強していた私には、ものすごくギャップがあったし、こんな会計はないと、この頃の模索は大変なものでした。我々会計士のありようも、問われた時代でしたね。
日本公認会計士協会前会長(現相談役)山崎 彰三
[主な主な役職] 元国際会計基準委員会(IASC)理事会メンバー(日本代表)、元国際会計士連盟(IFAC)理事会メンバー(日本代表)、元アジア太平洋会計士連盟(CAPA)会長、企業会計審議会臨時委員(現)、財務会計基準機構評議員(現)ほか多数